雀百まで踊り忘れず

【読み方】すずめひゃくまでおどりわすれず

【意味】雀は死ぬまで飛び跳ねる癖が抜けないように、幼いときに身につけた習慣はいくつになっても改まらないということ。

引用元:明鏡国語辞典

「ここにいてもいいのか?」

 気づいたら、「ここにいてもいいのか?」って考えてる。電車だったり、大学だったり。コンビニでも、公園でも、リビングでも。色んな所で自分の存在に疑問を投げかける。

 初めてこう思ったのは、多分、4歳か、5歳のころ。その部屋にいるすべてのの人間が、「先生」の教えに従っていた。その人たちは、幸せらしい。その教えに従うことが、唯一の正解らしい。だから、僕も同じように従わなければいけないのだと思っていた。

 周りの人たちと同じ行動をすれば、そのうち、同じように心も染まっていって、違和感はなくなっていくんじゃないかなって思っていた。周りの人たちに合わせて、朗読だったり、歌だったり、演技したりさせられた。...「してた」じゃなくて、「させられてた」。疎外感はいつまで経っても消えなかった。感じていた違和感は、日に日に大きくなってゆくだけだった。

 「ここにいてもいいのか?」って、ずっと、ずっと感じていた。

振り返ってみれば

 ある程度心も成熟し...(てると思いたい)た今、改めて向き合ってみる。

 当時の僕にはこれが当然で、これが僕の人生なのだと思っていた。感じていた違和感を訴えるだけの度胸も、語彙もなかった。周りの人たちがそうしているからやる。それだけ。

 誰のことも責めてはいない...表面的には。責める気も起きない。なんなら、別に嫌っているわけでもない。興味がないだけ。だから...なるべくしてなったんだろう。

 でも、そうはいっても、やっぱり、「そういうものだから」を受け入れられるなら...きっと、心が強いんだろう。生きるのが得意なんだろう。なんにも考えていないようにも見えるけど。盲信...っていうのは、失礼かな。僕が理解しようとしていないだけで、彼らにも考えや意見はあるだろうし。

これまでとこれから

 僕の心を一般的な基準と照らし合わせたとき、やっぱり不安定に見えるっていう責任を、この経験だけに求めるのは、少しやり過ぎかもしれない。言葉にできていない思い出は他にもたくさんあるから。

 あえて、これをまとめようとするなら...正直、いい経験になったと思っています。蓄積されていった(そして、未だに処理できていない)苦痛を過小評価していいというわけでは、決してないけれど。小学生には、どう考えても重すぎる荷だと思うから。

 どこまでいっても、これは間違いなく「私」という人間の一部分です。この経験がなかったら、私は私ではなかったと思う。例えば...「言葉にする」って行為を、今よりも遥かに軽視する人間だっただろうし。多分、このブログもやってない。

 「ここにいてもいいのか?」が頭に浮かばなくなることは、たぶんない。だから、こう考えてみる。この疑問は、自分の思っていることを素直に言葉にできるようにするための練習台、入口なのです。感情を、言葉を外に出すための、つい最近まで存在すら忘れ去られていた、錆びついた、重い重いドアなんです。

 きっと、自分に起きたことを、自分の感情を、完全に受け入れるのにだって、時間はかかる。だって、それはまるで、外の世界に出るという行為を今の今まで知らなかった人間に、「視野が狭い!もっと色々と経験しろ!」って怒鳴って、何も持たせずに外に放り出すようなもの。気長に待つしかないんでしょう。